はじめに
現職ではフロアごとに朝礼があり、昨日の受注報告や各本部のトピックスが紹介される。
最後に「司会者からの一言」というものがあり、おススメの本の紹介や、業界ニュース、ちょっとしたライフハックが語られる。
今回紹介するのは、自分が今まで話してきた「司会者からの一言」の中で最も評判が良かった、ソクラテスの「無知の知」に対する考察です。
そしてこれは、もしかしたら考察ではなく真実かもしれないし、非常に浅はかな考察にもなっていないものかもしれない。
あくまで自分自身でものの意味を捉えようとした産物であることをご了承ください。
「無知の知」とは
他人の無知を指摘することは簡単であるが、言うまでもなく人間は世界のすべてを知ることはできない。ギリシアの哲学者ソクラテスは当時、知恵者と評判の人物との対話を通して、自分の知識が完全ではないことに気がついている、言い換えれば無知であることを知っている点において、知恵者と自認する相手よりわずかに優れていると考えた。また知らないことを知っていると考えるよりも、知らないことは知らないと考えるほうが優れている、とも考えた。無知 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
なお、論語にも「知るを知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知るなり」という類似した言及がある。しかしこれらは「無知が良い」という意味ではなく、「無知であることを自覚することで、新たな学びを行うことを促進し、その結果無知を克服し成長する」ことを意味する。
Wikipedia大先生にはこのように書いてある。端的に説明すれば「自分が無知であることを自覚している人は優れている」「知への探求は、自分が無知であることを自覚することからスタートする」というものです。
おそらく多くの人はこの言葉の意味に対して深く考えたことがないと思います。私もその一人でした。
なんとなく言いたいことは分かる。確かに自分の知識をひけらかしているよりも、コツコツと勉強を続けている人の方が、将来的に優秀になるのではないか。
そんな漠然としたことを、中学?高校?の授業でソクラテスを学びながら考えていたと思います。
無知を自覚するのはいつか
考察、というより単純に一つ一つの言葉を読み解いていきます。
自分が無知を自覚するのはいつか。
いつでしょうか?
「自分は無知だ!」と自覚する機会は中々ありません。 「無知」は実は日常的に起こりすぎて自覚しづらいのです。
では実際に無知を自覚してみましょう。今から問題を出題するので、答えを考えてみてください。
①日本の首都は?
②日本の首都にある”都庁”は何区にある?
③日本の首都にある都庁がある区には、いくつの出張所がある?
殆どの人が③の答えは分からないと思います。自分で問題を作っておいて、自分もこの問題の答えを知りません。
何が言いたいかというと、ほとんどの人は②~③の問題で、人によっては①~②の問題の間に無知になるということです。
つまり無知を自覚できる瞬間というのは、無知と無知ではない境界にあるといえます。

知らないことは無限に広がり、知っていることは観測不能ではありますが有限です。この図のように、知っていることと知らないことには境界があり、この赤線の部分が、自分が無知だと自覚できる機会であるといえます。
知識が豊富な人の境界線は広がる

この図のように、知識が増えれば増えるほど知識の円は広がっていき、無知だと自覚できる境界線は広がっていきます。
つまり知識が豊富な人=自分が無知だと自覚できる機会が多い人となります。
ソクラテスの言う「無知の知」を実現するためには、より多くの知識を習得する必要があるのです。
また「無知の知」を実現するために、一番危ないのが傲慢です。
自分の知識の円は狭いのに、自分の知識の円が広いと勘違いしている人は、本来の境界線の位置を誤って認識し、無知を自覚できる機会を逃してしまいます。
最後に
自分がこの朝礼ネタを「改めて自分の知っていること、知らないことを整理し、知識の円を広げるために何が必要なのか考えてみましょう」という形で締めくくりました。
別にこの記事の内容を朝礼のネタに使ってもいいですし、一つの考え方として落とし込んでもらっても構いません。
またあくまで一個人の考察なので、ソクラテスが本当にこう思ったのかも分かりません。
ただ言いたいこととしては、少なからず、知識の円は広げることに越したことはないということです。